昭和の忘れられない職人的歌手 町田義人

※昭和に数々の名唱を残した町田義人氏をイメージした画像(Pixabay)

映画「キタキツネ物語」のCMで知った唯一無二の声

私が町田義人という歌手を知ったのは、昭和53年(1978年)7月に封切られた映画「キタキツネ物語(製作:サンリオ 監督:蔵原 惟繕)」のCMだった。当時、この映画の宣伝がTVで頻繁に流れ、主題歌「赤い狩人(作詞:奈良橋陽子・三村順一/作曲:タケカワユキヒデ)」を耳にした瞬間に町田義人氏の歌声に魅せられたものだった。

同年の秋から放送開始となったロバート・ルイス・スティーヴンソンの児童文学をアニメ化した「宝島(製作:東京ムービー新社 演出:出崎統)」の主題歌「宝島(作詞:岩谷時子/羽田健太郎/コーラス:コロンビアゆりかご会<町田よしと名義>)」を聴いた瞬間に「キタキツネ」の人だとわかるほどだった。エンディングだった「小さな船乗り」も一聴の価値ある名曲である。

繊細と憂いと骨太な唯一無二の声・町田義人

歌詞の世界観を時には繊細に、ある時には愁いを、またある時は壮大さや骨太さを感じさせる歌声でありながら、やはり歌っているのは町田義人その人であるのだとわからせるブレの無さ昭和末期に出現した日本歌謡史に残る唯一無二の歌う職人と言っても過言ではない。

映画「キタキツネ物語」の音楽を佐藤勝氏とともに担当したゴダイゴのタケカワユキヒデ氏は主人公・フレップの心情を歌にした「赤い狩人(昭和53年=1978年7月シングルリリース)」「雨はナイフのようさ(カップリング)」「白い彷徨」「炎のレクイエム」「果てしない道」は町田義人さんを想定し手掛けたことは明白でタケカワ氏直々に町田さんに〝歌ってほしい〟と依頼し実現した昭和という時代が生み出した奇跡ともいえる名唱でもあった。

タケカワ氏が別の歌手に手掛けた曲の中で印象深いのが昭和60年(1985年)10月にリリースした中森明菜さんの「SOLITUDE(作詞:湯川れい子/作曲:タケカワユキヒデ/編曲:中村哲)」も中森明菜という歌手の〝孤高〟の部分を浮き上がらせた湯川れい子さんの乾いた歌詞と中森明菜さんの愁いを帯びた歌声を想定し手がけた作品と言える。その後の歌手・中森明菜の路線をも決定づけさせる名曲だ。

話は町田義人氏に戻るが、同年の昭和53年(1978年)10月に封切られた角川映画「野生の証明(原作:森村誠一 監督:佐藤純彌 主演:高倉健)」の主題歌も町田氏が歌い「戦士の休息(作詞:山川啓介/作曲・編曲:大野雄二)」は累計売上29.5万枚を記録しオリコンチャート第6位のヒットとなった。プロの歌手となって10年目に訪れた昭和53年(1978年)は町田義人氏にとって熱い一年だったに違いない。

※1角川映画「野生の証明」で高倉健氏扮する自衛隊の特殊部隊隊員・味沢の養女となる頼子役はオーディションが敢行され、薬師丸ひろ子さんが選ばれ女優デビュー国民的アイドル女優となり、現在も第一線で活躍している。最終選考で最後まで争った三輪里香さんはテレビドラマ版の頼子役として抜擢されるも昭和59年(1984年)に引退。一説ではテレビドラマ版の三輪さんの方が寒村地域に住む原作の頼子の年齢やイメージに近い(昭和53年当時12歳)と推す声が多い中、少女頼子よりやや成長しどこかミステリアスな薬師丸さん(昭和53年当時14歳)を推し切ったのは、角川映画を取り仕切る角川書店の社長本人であったという話がある。社長・角川春樹氏の見る目は正解だったのだろう。

※2町田氏歌う「戦士の休息」の作詞を手掛けた山川啓介氏は、昭和57年(1982年)に最大のヒット曲となった岩崎宏美さんが歌う「聖母たちのララバイ(作曲:木森敏之・John Scott/編曲:木森敏之)」の作詞も手掛けている。「戦士の休息」の男性側の心情に対する女性側の心情を綴ったものだと言われているが、山川啓介氏のウィキペディアの中でご本人自身の懐述によると「作詞はどなたかのピンチヒッターみたいだった。カラオケまで全て整って僕に回ってきた。(詞の意図は、)サスペンス劇場「火曜サスペンス(エンディングテーマ 【日本テレビ】)」だから、そのまま終わるより、安らかな気持ちで眠りについてほしい、うなされたりすると困るから。」と発言している。ご本人の発言が本心なのかはご本人のみぞ知ることなので、アンサーソング説は真偽不明。ただしかつて手掛けた「戦士の休息」が頭の片隅にあったのかもしれない。

音楽活動のスタートは学生時代からだった

町田義人氏の歌手人生は大学生の時から始まった。高校時代の同級生の田村守氏と意気投合し昭和40年(1965年)フォークデュオを結成。さらにカントリーバンドに在籍していた上地健一氏が昭和42年(1967年)に加わり3人編成のコーラスを主体にしたキャッスル&ゲイツを結成。昭和44年(1969年)に東芝からキャッスル&ゲイツ名義で「おはなし」が突如リリース。音源はオリジナルメンバーではなく(町田氏と上地氏はズーニーヴー結成しプロデビュー。町田氏と高校の同級でもあった田村守氏は大学卒業後就職。)後任のメンバーによるものだが、シングルジャケットが町田氏らが在籍当時の写真であったため、後年ファンの間で混乱を招いているという。

町田氏は上地氏ととも昭和43年(1968年)にR&Bバンド・ズーニーヴー(結成当初はZOOM BOOM 5というバンド名)を結成。彼らの代表曲は「白いサンゴ礁(作詞:阿久悠/作曲・編曲:村井邦彦)」オリコンチャート第18位。デビューして瞬く間にスマッシュヒットとなった。尾崎紀世彦氏が歌い71年に第13回レコード大賞受賞、第2回歌謡大賞受賞した「また逢う日までの」原曲「ひとりの悲しみ」を前年の昭和45年(1970年)にリリースするもヒットに至らず、先に世に放たれた「ひとりの悲しみ」は日本音楽史の闇に埋もれてしまうはずだったが尾崎氏が歌ったことで日が当たり、近年、ネットの動画共有サイトというプラットフォームの出現によりさらに再評価されるまでに至っている。「また逢う日まで」と同じく作詞(新たに書き下ろし)は阿久悠氏、そして今年10月7日にお亡くなりになった筒美京平氏が作曲(編曲)を手掛けた名曲である。

寧ろ、現代の若者たちは「ひとりの悲しみ」の世界観の方が等身大というかグッとくるかもしれない。「また逢う日まで」はあまりにも男女の別れをドラマティックに描かれ過ぎていて私はちょっと照れ臭くなる。その世界観が尾崎紀世彦氏の風貌とダイナミックな歌唱力にピッタリだったことは言うまでもないが・・・当時は等身大ではなく劇的なものがウケていた時代でもあったのだろう。

町田氏は「ひとりの悲しみ」リリース後にズーニーヴーを脱退しソロ歌手へ転向。ズーニーヴーも翌年の昭和46年(1971年)に解散している。

ソロへ転向後は、ロッテの梅味キャンディーの「小梅」のCMソングとサウンドロゴも担当。CMのイメージイラストは林誠一氏による。小梅発売当初の昭和50年代のCMシリーズの作曲は筒美京平氏が師事した今年、文化功労章を授与されたすぎやまこういち氏(89歳)。後に「ドラゴンクエスト」の音楽を手掛けた御大である。

その他につかこうへい氏演出のロックオペラ舞台「サロメ」にも自ら詩人役として出演し、「風のように」「サロメ・ファンタジア」「絹物語」の3曲を披露。舞台のサントラ盤にも収録されているも、そのサントラ盤は入手困難の模様。

現在は・・・歌手活動を休止(事実上の引退か)

PlayStation用ソフト「クーロンズゲート」(KOWLOON'S GATE -九龍風水傳-1997年2月28日発売)にて声優(バンブージー役)として出演を最後に芸能活動の記録は残されていない。

歌手・町田義人は記録ではなく記憶に爪痕をしっかり残していった歌手だった

海外で生活しているという情報しか聞こえてこず現在74歳、私生活についても一切公表されておらず、異国の空の下で達者で過ごされているなら何よりだと思うしかない。

最後に・・・Official髭男dismのヴォーカルの方が「戦士の休息」を歌っている動画を拝聴致しましたが・・ヴォーカルの方はかなり音域が広い方とお見受けした😅
お若い表現者たちが昭和の名曲を歌ってくれることは大いに嬉しいものですね。その名曲を知らなかった世代にまで伝わるから・・・

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