破壊力・強
恐怖!あなたを誘う死語の世界の第3弾。前回の破壊力・中篇からの破壊力・強篇を紹介しよう!(あくまでも主観)
- 「赤信号 みんなで渡れば怖くない」
- 「あ・ん・たはっエライっ!以下同文!」/「どーかひとつっ!ながーい目でみて下さい」/「いてぇな×3」
- カマトト
- 「カラス なぜ啼くの カラスの勝手でしょ~♪」
- 「コ・マ・オ・ク・リ・も・で・き・ま・す・よ」
- コマネチっ!
- 「そうなんですよ 川崎さんっ!」/「A地点・B地点」
- 「チカレタビー/がんばんべぇ」
- 「ちゃっぷい×2 どんとっぽっちぃ(寒い×2 どんとほしい)」
- ツッパリ
- 「ディス・イズ・ア・ペン」
- 天中殺
- 「飛びますっ!飛びますっ!」
- 翔んでる
- 「トンデレラ シンデレラ」
- 「〇〇どぇ~す」
- 「な・ん・でっ!そーなるのっ!」
- はっぱふみふみ
- バイナラ
- ハクい
- 花金(花の金曜日)
- 「人の迷惑考えず(省みずもあったような・・)!やって来ました電線軍団」
- ぶりっこ
- ボイン(デカパイ:巨乳を指す)
- マブい
- 無責任男
昭和55年(1980年)に一気に高まった漫才ブームからスターダムにのし上がったツービートの北野武さん(ビートたけし)が漫才のネタで世に放った危ない標語の代表格。毒舌だったたけしさんはたくさんの不謹慎ともいえる標語を生み出し、ニッポン放送のラジオ番組「オールナイトニッポン」木曜日のパーソナリティだった頃(厳密に言うと金曜日1:00~3:00)番組内で、現在ではピー音炸裂なネタや標語などを垂れ流していた。それはそれで大らかな時代だった。もしかすると一人5ちゃんねる状態だったのかもしれない。当時、現在のようなネット環境だったら、大炎上ならぬ大惨事になっていたレベルであったことは間違いない😅
昭和51年10月~昭和53年3月末(1976年~1978年)までNET☞テレビ朝日系列で放送されていた「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」で繰り出された小松政夫さんの定番ギャグ。コント「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」の中で小松政夫さんが、鬼かあーちゃん役の伊東四朗さんに杓文字で頭を叩かれる度に両手で頭を撫でる時に3回連呼していたギャグ「いてぇな・いてぇな・いてぇな」や番組内で誕生したキャラクター「デンセンマン」とベンジャミン伊東(伊東四朗さん)、小松与太八左衛門(小松政夫さん)率いる電線軍団がハイテンションで「デンセン音頭」を歌って踊り捲るという今考えるとなぜ?そうなったのか?時代の空気がそうさせたとしかいえないコーナーの中で「あ・ん・たはっエライ!以下同文!」「どーかひとつっ!ながーい目で見て下さい!!」他多数の小松さん独特のギャグが炸裂していた。
※伊東さんは当時の「デンセンマン」の映像を直視できずにいるらしい・・・😅
昭和50年代半ば(1980年~82年)頃によく耳にしていた言葉。伝説化した流行語・ぶりっことセット使いされ、80年代的解釈では本性は発展家だが清純ぶる、初心さを装う女性を揶揄した俗語。
諸説はあるが、世間知らずを装い「カマボコはトトからできてるの?」と甘い声で殿方に尋ねるような女性をイメージしたもの。その尋ね文句のカマボコのカマと幼児語のトト(魚)を縮めたもの。
幕末の花柳界でよく使われていた言葉とも言われている。「あぁ~〇〇屋(置屋)の〇奴(お芸妓さん)はホント、カマトトだからねぇ~」って具合に使われていたのだろう。
昭和のバラエティ番組の金字塔・「8時だョ!全身集合(昭和44年~昭和60年毎週土曜8:00放送 TBS)」のワンコーナー・少年少女合唱団で志村けんさんが歌う唱歌「七つの子」の冒頭部分にいきなり〝オチ〟をつけてしまったギャグ。当時、ちびっ子たちの間で誤った「七つの子」を覚えてしまうと教育機関が何かとざわついたギャグでもあった。
昭和54年(1979年)に発売された松下電工(商標:ナショナル☞現:パナソニック電工)のビデオデッキ・マックロードのCMで、ボクシングをするザ・ドリフターズの仲本工事さんと高木ブーさんがビデオの機能に合わせた動きの中で仲本工事さんが言った言葉。マックロードにコマ送り機能も付いたというアピールは絶大。CMをマネする男子が続出。
昭和55年(1980年)の漫才ブームで人気のツービートの北野武さん(ビートたけし)の定番ギャグ。両手をパンティラインに沿って上に引き上げる動きをつけ「コマネチっ!」というそれだけのギャグなのだが、お茶の間のちびっこたちはそんなギャグに歓喜した。昭和51年(1976年)カナダのモントリオールで開催された夏季五輪の体操女子で10点満点の演技を披露したナディア・コマネチ選手(当時ルーマニア代表)が由来。当初は他の体操選手の名を駆使したギャグも存在した。同じくモントリオール大会の体操でソヴィエト(現:ロシア)代表、跳馬、床で金、団体総合で金を獲ったネリー・キム選手の名をいいながら、片手を股間に当て縦一文字に反り上げるというギャグ。同大会で鉄棒で銀となった日本代表の監物永三選手を〝ケンモツ〟と力強く言い放ちもっこりを現す動きのギャグなどもあったが、やはり・・・表現的に柔らかなコマネチだけを披露するようになっていった。
昭和40年~昭和60年(1965年~85年)NET☞テレビ朝日系列で放送されていた「アフタヌーンショー」の凄惨な殺人事件や未解決事件を扱うコーナーがありレポーター兼事件の詳細を解説する俳優の山本耕一さんと司会の俳優の川崎敬三さんとのやり取りの中で生み出された流行語。昭和55年(1980年)に巻き起こった漫才ブームで人気となったザ・ぼんちによる、このコーナーのパロディにした漫才ネタが大人気となった。
ザ・ぼんちはこのネタを取り入れた「恋のボンチシート(作詞・作曲:近田春夫/編曲:鈴木慶一)」なるシングルをリリース。予想をはるかに超える80万枚の売り上げを叩き出す空前の大ヒットとなった。さらに武道館Liveまでに発展し大入り満員にさせお笑い芸人という立場が芸能界に於ける地位を確立させた事件でもあった。しかし「アフタヌーンショー」でこのコーナーで扱われた事件はかなり凄惨を極める事件が多くパロディ元は笑えるものでなかったことはここに記しておきたい。
昭和50年(1975年)地方で力強く生きる人たちに焦点を当てた新グロモント(中外製薬☞現在はLIONに販売移管)のCMで生まれた流行語。
昭和58年(1983年)金鳥の使い捨てカイロの〝どんど〟のCMで縄文人に扮した桂文珍師匠と西川のりおさんが「ちゃっぷい・・ちゃっぷい どんとっぽっちぃ・・」と
連呼する様が若者や子どもたちのハートを鷲掴みにし流行語となった。
昭和55年(1980年)頃から不良少年(少女)たちを称す俗語。
昭和39年~昭和49年(1964年~1974年)3月までザ・ドリフターズに在籍していた荒井注さんの一発ギャグ。不貞腐れた感じでギャグを飛ばすその様がなかなか面白かった。何の変哲もない英語をギャグにできるのは後にも先にも荒井注さんだけである。荒井さん自身、毎週土曜の生放送の「8時だョ!全員集合」レギュラー出演に体力の限界を感じ脱退。
荒井さんが脱退の意志を申し出た際、リーダーのいかりや長介さんは困り果てたそうだが、当時、いかりやさんの付き人をしていた志村けんさんを新たなメンバーに加え、志村けんさんの快進撃はご存じの通り。冠番組まで持つほどのお笑い界の重鎮になっていった。
昭和54年(1979年)、易者の和泉宗章著書「天中殺入門」などの2冊の書籍が300万部のベストセラーとなりTVで特集が組まれたり、ドラマのタイトルに使用されたり何かと耳にしたものだ。
コント55号時代の結婚式をテーマにしたコントから生み出された坂上二郎さんの定番ギャグ。両手を飛行機に見立てて「飛びますっ!飛びますっ!」というだけのギャグなのだが、萩本欽一さんの無茶ぶりに坂上さん独特の惚けた返しの様子が当時の観客やお茶の間を沸かせた。北野武さんがコント55号のコントについて折に触れて語っていたことで一貫しているのは、70年代以降の欽ちゃん(萩本欽一)の笑いのイメージは温かい人を傷つけないものだが、それ以前のコント55号時代の欽ちゃんはボケ担当の坂上さんに対し〝いじめ〟に近い毒のある笑いだったと指摘。だから自分(北野武)はTVでも毒のある笑いをやりたかったみたいなことも・・・。しかしコント55号結成前の二人の関係は坂上さんの方が芸人としては先輩、初めての出会いはストリップ劇場「浅草フランス座」の舞台袖でぶつかって坂上さんに「何やってんだ!!」と凄まれたらしい、当時、駆け出し時代の欽ちゃんにとって坂上さんは怖い先輩でしかなかったという話は事実。
※昭和時代、浅草の劇場で活動していた芸人さんたちのほとんどがストリップ劇場で前座をしたり、幕引きなどの裏方の手伝いをしていたものであった。そんな下積み時代にストリップ劇場では大幅なリストラが行われ、坂上さんは劇場を去る。その後はキャバレーなどで営業していた時期に萩本欽一さんと再会しコント55号を結成。その後、破竹の勢いで人気コンビとなり、冠番組まで持つようになった。しかし、70年代に入った頃から坂上さんは俳優業にも進出。昭和49年~昭和52年(1974年~1977年)に放送された刑事ドラマの名作「夜明けの刑事(TBS制作/水曜夜8:00~53分放送)」で主演を務め、俳優としての地位も確固たるものにしていった。
常識にとらわれずに行動する。自由に生きる人のことを良くも悪くも指す言葉。昭和54年~50年代後半(1979年~1980年代初め)の頃、メディアでよく耳にしていた言葉。新人類と合致する。
昭和52年(1977年)金鳥のキンチョールのCMのキャッチコピー。このキャッチコピーを考案したのは、コピーライターの川崎徹氏。CM出演は当時、歌手としてタレントとしても飛ぶ鳥を落とす勢いだった研ナオコさん。
それ以前に愛川欽也さんとの共演したミノルタのCM(昭和48年=1973年)既にコメディエンヌとして開花していた。しかし当時の愛川さんとのCMは今なら、大炎上になること間違いなし😅
昭和55年~57年(1980年~82年)頃に流行った「〇〇です」を崩した言葉。特に当時の風潮、波に乗った女子大生や若い女性が使っていた言葉。
昭和56年~平成元年(1981年~89年)にかけてフジTVで放送されていた「オレたちひょうきん族」の人気コーナー「タケちゃんマン」で北野武(ビートたけし)さんが皮肉るように連呼していた記憶あり。
正直、当時中学生だった時分、この「どぇ~す」という響きが大嫌いでTVから聞こえる度に身体がぞわぞわする感覚を覚えたものだ。これが俗に言う「さむい」という感覚であったことは後に知る。
土曜夜8:00の「8時だョ!全員集合」の牙城を切り崩そうと他局からは数多の裏番組という刺客が放たれるも萩本欽一さんの「欽ちゃんのドン!とやってみよう」以外の番組はことごとく撃沈。しかし昭和55年(1980年)に沸き起こった漫才ブームにより、東西のお笑い芸人が終結し放送スタートとなった「オレたちひょうきん族」の勢いで「8時だョ!全員集合」は昭和60年(1985年)に終焉。その後、ザ・ドリフターズの加藤茶さんと志村けんさん二人が「オレたちひょうきん族」に立ち向かうかの如く「加トちゃんケンちゃんゴキゲンテレビ(平成4年=1992年に終了)」がスタートとなる。緻密に練り上げられた二人のコントが毎週きっちり披露された番組だった。バラエティ番組としてのクオリティの軍配は遥かに「加トちゃん・ケンちゃん」にあった。
※北野武さんは「オレたち~」の収録ぶっちぎり(収録をサボる)を幾度かやらかす。北野さん自身は覚えてないかもしれないが「俺・・・こっちよりあっち<8時だョ!のこと>に出たい」と、「8時だョ!全員集合」との視聴率の戦いに勝ち勢いがあった頃の番宣用の映像の中で漏らしていた。木曜パーソナリティ(翌金曜日の1:00~3:00)を務めていた「オールナイトニッポン」でも類似した「オレたち~」に対するダメ出し的話をしていた記憶もある。要するに「オレたち~」の様な浮かれた楽屋ネタ、内輪ネタ(出演芸人の極めて私的な下半身事情など知りたくもない、ネタにもならない話題)ノリ、他キャスト、スタッフの番組作りに嫌気がさしていた可能性も考えられる。現在では終焉を迎えさせられた「8時だョ!~」関連のDVDの方が売り上げている状況からしても答えは出ている。「オレたち~」をケーブルTVなどの再放送でご覧になると結構キツイのが正直な印象だ(時代の空気、その場の雰囲気に流されることは歳月が流れるにつれ恐ろしいことを暗に教えている。)。番組の看板的北野武さんが収録を幾度かぶっちぎる状況下でも、それを逆手にとってギャグにする共演していた明石家さんまさんと番組制作陣のパワーもスゴイと言えばスゴイが・・・。狂気とも言える80年代がそうさせたのだろう。私は「オレたち~」放送開始時期に2,3度でギブアップしたことは内緒だ😅
昭和48年~昭和51年3月(1973年~1976年放送期間は3期に区切られ2回2クールの休止あり。)まで放送されていた「コント55号のなんでそーなるの!(日本テレビ制作)」のコーナーとコーナーの狭間に差し込むアイキャッチでコント55号の顔面が登場し萩本欽一さんによる「な・ん・でっ!そーなるのっ!」(坂上さんの笑い声とも表現しがたいウヒャウヒャという声も含まれていた)が使われていた。その影響により萩本さんのものまねをする殆どの人が〝欽ちゃん走り〟とこのアイキャッチコールの言葉を使用するという萩本欽一さんを象徴するツッコミ用語となった。当番組は「女性や子どもたちに迎合しない男が笑うコント」をコンセプトにしていたこともあり、収録中はコントとコントのつなぎにストリップショーを行い敢えて女性や子どもが観覧し辛い環境を作るという徹底ぶり、勿論TV放送時はその部分はカットで放映されていた。しかし、ストリップがメインだった劇場で前座や裏方をやっていた下積み時代とは逆の立場になるとは坂上さんも萩本さんも夢にも思わなかったことだろう。
※動画サイトなどで当時の番組の映像を幾つか視聴すると観客の中に女性の笑い声もちらほら聞こえてくる。当時の彼らの人気の高さが窺えるもやはり「8時だョ!」のようなちびっ子たちの笑い声は皆無である。
昭和44年(1969年)、パイロット萬年筆〝パイロットエリートS〟のCMに深夜番組の金字塔「11PM」の月、金の司会担当で人気者となった大橋巨泉氏を起用し、CMの中で発した迷文句の締めを括った言葉。
CMではパイロットエリートSを片手に「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」といいながら書き心地の良さをアピールし流行語となった。
昭和51年~昭和61年(1976年~1986年)までテレビ朝日系列で放送されていた「欽ちゃんのどこまでやるの!」の番組のメインとなったホームドラマ仕立てのコントの中で、斎藤清六さん扮する「村の時間」のたよりないアナウンサーが番組の締めに使っていた言葉。バイバイとさよならを合わせた造語。ちなみに斎藤清六さんは後にそのホームドラマコントの世界観で超絶人気俳優という設定でラブロマンス風味の刑事ドラマ「さすらいの刑事」の主人公にも扮していた。お相手役は叶和貴子さんであったことを記しておこう!
昭和50年~昭和57,8年(1970年代中頃から80年代初め)のツッパリがブームだった頃、美しい女性を〝ハクいスケ(スケは女性を指す)〟などと称した誉め言葉ともいえるツッパリたちの間で使われていた俗語。ハクい自体は戦後から使用されていた俗語で、ハクいのハクは箔からきている。同時期に流行したマブいと類似した俗語でもある。
日本の企業や官公庁、公立の小中学校が週休二日制となったのはまちまちであるものの、その制度(土曜休日の企業だけ該当)を導入した企業が一気に増えた1980年代(昭和55年~平成元年)に休日前の金曜の夜を思いっきり遊ぶという習慣がつき始めた頃から流行りだした言葉。
上記の「あ・ん・たはっエライっ!以下同文!」/「どーかひとつっ!ながーい目でみて下さい」/「いてぇな×3」に記載した番組のワンコーナーでベンジャミン伊東に扮する伊東四朗さんが登場するときに発していた言葉。
昭和55年(1980年)に芸能界を引退したどこか影ある愁いを帯びた山口百恵さんの路線とは、真逆ともいえる春風の様な初心な印象でデビューした松田聖子さんを揶揄した言葉としてたちまち流行語になってしまった。まだ、山口百恵さんの面影に未練という感情を抱いていた一部のメディアのおっさんたちにより広められてしまった感が否めない言葉でもある。
当時、松田聖子さんは〝ぶりっこ〟と呼ばれることについて「私はどんなことを言われてもいいんです。アイドル・松田聖子を演じ続けます!」と宣戦布告とも言える強気な発言をしている。松田聖子さんの芯の姿は実に〝男前〟であった。
昭和40年~平成2年(1965年~1990年)の24年間、深夜番組の金字塔として放送されていた「11PM」のアシスタントとして出演し大橋巨泉氏とは息の合った名コンビぶりを披露していた朝丘雪路さんの豊かな胸を大橋氏が〝ボイン〟と称して流行語となった。その流行に便乗し落語家で漫談家の月亭可朝さんがシングル「ボインの嘆き(昭和44年=1969年)」をリリースし80万枚を売り上げる空前の大ヒットとなった。
美しい女性を指す言葉。マブは眩しいの眩。この言葉は江戸時代の滑稽本などに既に登場している古い俗語。盗賊が使用していた俗語とも言われ、質の高い眩い光を放つ宝石や装飾品などにも〝マブい品〟などと使われていたという説もある。上記のハクいとほぼ同じ意味の俗語。1970年代中頃~80年代初めにかけてツッパリの間で使われていた俗語。
ザ・ドリフターズの先輩グループだったザ・クレイジーキャッツ(ハナ肇とクレイジーキャッツ)の植木等さんの飄々とした表面的イメージから広まっていった流行語。人気絶頂期の昭和35年~44年の60年代には植木さんのイメージ先行のキャラクターをフィーチャーした映画や楽曲などが量産された。今も尚、根強いファンの存在があり私もその中の一人😅
※植木さんはイメージと実像の乖離に苦しんだ時期もあったという・・・
破壊力・強篇は以上 破壊力・最狂篇へとつづく・・・