【ザ・昭和】時代は廻る?何の因果か?ケミカルウォッシュ

80年代の若者たちの定番だったケミカルウォッシュジーンズ(画像:写真AC/Pixabay)

時代は廻り歴史は繰り返されるケミカルウォッシュジーンズ

80年代の後半、所謂バブル期前半に人気だったケミカルウォッシュジーンズ。しかし時代の流れとともに〝ダサい〟〝ありえない〟という
烙印を押され記憶の彼方に追いやられていたはずのケミカルウォッシュのジーンズが平成後期の2010年代以降から熱いらしい。

ケミカルウォッシュとは

洗剤(漂白剤)と砂利大の樹脂塊などを共に洗濯機で攪拌する等した意図的にダメージ加工を施すこと。
そのような加工を施したジーンズを当時のアイドルなどが挙って着用しバブル全盛期の80年代後期に大流行した。
巷の洋服店やジーンズ専門店では、ケミカルウォッシュのジーンズが占拠していたことを記憶している。

しかし、流行したのは僅か1,2年ほどでケミカルウォッシュ独特の見た目が〝霜降り肉〟を彷彿させるものがあり
〝霜降りジーンズ〟と揶揄され、時代の波に搔き消されてしまった。

ケミカルウォッシュに楔を打ち込んだのは一体誰?

昭和58年(1983年)にデビューしハナマルキCMの素朴なイメージからお洒落の最先端を突っ走るイケた女に変貌していた今井美樹さんにより
ケミカルウォッシュ流行に楔を打ち込まれあっけなく終焉。時は昭和も一年で終焉を迎える昭和63年(1988年)であった。

イケた女・今井美樹さんはお日様のような笑顔でジーンズを穿き熟したちまちファッションリーダーになる。

兎に角、当時の彼女は〝霜降りジーンズ〟ではなく、サックスブルーのジーンズ、もしくはインディゴブルーのワンウォッシュジーンズ、
そして革新的ともいえるダメージジーンズ(クラッシュデニムとも呼ばれる)を颯爽と穿き野暮ったいイメージを一新させた功労者の一人でもある。

ケミカルウォッシュブームにトドメを刺した昭和63年(1988年)、彼女は第5回ベストジーニスト賞に選ばれ授与式には
ロングのソバージュヘアにクッキリさせた太眉と真っ赤なルージュ。腕には太めのシルバーのブレスレット。
純白のカットソーにふんわりとした白シャツを羽織り、強調されたバックルの太いベルトその境界の先にはダメージジーンズに足には黒いスリッポン。

当時としては革新的で破れたジーンズさえお洒落に着熟す彼女に周囲はド肝を抜かされたのであった。

ダメージジーンズと言っても昨今、ネット検索すると散見するようなド派手なダメージっぷりのジーンズとは違うまだ控えめな〝破れ〟ではあるものの
平成を目前にした昭和末期は、破れた服を身に着けることは常識破りであり躊躇してしまう時代であったことは記しておこう
※昭和63年(1988年)第5回ベストジーニストの授与式に出席した姿を拝みたい人は〝今井美樹 若い頃〟でググると確認できるかも

時は流れ時代は廻るケミカルウォッシュ復活

長い間、敬遠されていたケミカルウォッシュは、ジーンズの加工技術の進歩により新たな形で再評価されている。
2010年代以降から、特にティーンズファッションや子供服などで目にするようになり、ダメージジーンズとともに一般的に浸透しているほどである。

88年にセルロース分解酵素によりデニム生地の一部を分解させ、自然で上品な風合いのストーンウォッシュにするバイオウォッシュ技術が開発されたことも、
目がちかちかするほどのまだらな「霜降りジーンズ」が一気に消滅してしまった一因。現在は加工技術の進歩で様々な加工が施されたジーンズが存在する。

セルフでケミカル(ストーン)ウォッシュする若者たち

Youtubeで〝ケミカルウォッシュ〟で検索すると、セルフで色抜きをしている動画がありショックを受けてしまった(良い意味で)

それはそれは涙ぐましいもので、ジーンズに対する飽くなき精神が伝わってきたものである。
ただし、ブリーチ(漂白)剤は刺激が強いので身体的に大丈夫だったのかが気になった(特に呼吸器系)。

さらにはLevis510のケミカルウォッシュVerが米国のみで発売されたものをゲットした若者などの動画もある。
ケミカル(ストーン)ウォッシュが再評価されているのを目の当たりにし何故だか嬉しくなってしまった。

ジーンズ デニム Gパンは同じ意味?

あのパンツをジーンズ(Jeans)、Gパン、デニム(Denim)などの呼称で耳にするが、自分は混乱してしまうのでこれを機会にネットで調べてみると、予想通り「デニム(denim)」は生地そのものを指す呼称で、フランス語のニームの綾織りという意味の「serge de Nîmes~セルジュ・ドゥ・ニーム~」が語源。「de Nimus~ドゥ・ニーム~」の部分が訛化して〝denimデニム〟と呼ばれるようになった。

ジーンズはデニムの語源の「serge de Nîmes~セルジュ・ドゥ・ニーム~」ニーム産の綾織りの輸出拠点となっていたイタリア・ジェノヴァのことを中世時代のフランスでは「Gêne(ジェーヌ)」と呼び、後年、英語が混じりGからJ表記の「Jean」となり複数形のsが付き「Jeans(ジーンズ)」に訛化。

一番馴染み深い「Gパン」は日本固有の呼称。由来は諸説ありその一つが戦後の闇市で出回っていた米国軍軍人(俗称G・I)の放出品をG・Iパンツと呼びそれを略したとする説。
その他には日本に初めてジーンズを紹介した人物がJeanの頭を取り「Jパン」という呼び名にしようとするも、ジーの発音にちなみ「Gパン」にしたという説。
あともう一つの説はJeanの生地のパンツを略して「ジーパン」のジーをそのままローマ字読みの「G」を当て「Gパン」となった説がある。
ただし、現段階では由来ははっきりしていない。

ジーンズをGパンと紹介した人物について

Gパンの諸説の中で日本で初めてジーンズを紹介した人物とはいったい誰なのか気になり調べてみるも明言されたものはなかった。
ジーンズを日本人で初めて穿いた姿を写真に収めたのは白洲次郎氏(昭和26年<1951年>)。
それから5年後の昭和31年(1956年)に日本に正規の形でジーンズを輸入販売を始めたのが東京都港区北青山1丁目の栄光商事(後のEIKO/現在も海外のジーンズブランドの輸入販売をしている)と言われている。
国産第一号ジーンズは昭和38年(1963年)大石紡績が米国「キャントンミルズ社」からデニム生地を輸入し、輸入元の社名を勝手に拝借した国産第一号ブランドともいえる「CANTON」ジーンズを東日本(群馬県)と西日本(本社・岡山県/製造工場は香川県)の二か所で製造させていた。
しかし、昭和43年(1968年)に名前を勝手に使用していたとデニム生地の輸入元の「キャントンミルズ社」から物言いがつき、事実上国産第一号ブランドの「CANTON」は消滅。
西日本の製造拠点であった「マルオ被服」は「CANTON」と並行し昭和40年(1965年)より独自に米国の「コーンミルズ社」から輸入したデニム生地で製造していた「BIGJOHON」だけが残り今に至っている。
国産第一号ジーンズはマルオ被服(BIGJOHON)の「CANTON」説と昭和35年(1960年)に製造開始した高畑縫製の「EIGHT-G」説があるとされるが、証拠になる資料がないため、明確な資料が残されたマルオ被服(BIGJOHON)の「CANTON」が有力とされている。

日本にジーンズが渡ってきたのは戦前の大正時代?!

日本に初めてジーンズが渡ってきたのは、奇しくも大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の時、海外からの支援物資の中にジーンズが含まれていた。当時は「香港ズボン」と呼ばれていたという。
理由は、海外からの支援物資が香港経由で送られていたことからその名で呼ばれていた。

この記事を記す際、参考にさせて頂いたサイト

ジーンズ Wikipedia

FASHIONPATHFINDER 国産ジーパン第一号は?国産ジーンズの歴史を語るうえでのキーカンパニー

CANCAN.jp デニムVSジーンズVSジーパン、最も呼んでる人が多いのは…

JOURNAL 国産ジーンズ第一号と日本のジーンズ製造の歴史

Gigazine ジーンズの発祥から日本での歴史が一目でわかる「日本のジーンズの歴史」

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