(画像:Pixbay)
戦慄!何気ない日常に潜む死語
時に周囲を凍り付かせ(寒い状況にさせ)、ある時には空気を微妙にさせ、耳にしてしまった者が聞かなかったことにしてしまう(華麗にスルー)、その言葉を発してしまったある者は居た堪れない気持ちに陥り、またある者は「それがどうした」と言わんばかりに開き直る。また開き直りは既に通り越し達観した者は意図的に駆使する・・・恐ろしい言葉、死語。
元号が令和になっても、思わずその禁断ともいえる言葉を発した瞬間を目の当たりにした人、発してしまい〝やっちまったな〟という胸中になってしまった人は少なからずいるのではないだろうか?
その恐ろしさは日本中を席巻し流行もしくは物議を醸した言葉ほどその破壊力は抜群である。
他のサイトでも死語をテーマにしたものは散見するが、ここでも誰も口にすることがなくなった廃語、死語(戦後の昭和中期から末期限定)について綴ってみる!
ここではその破壊力の強度順に紹介しよう!まずは破壊力の柔らかい死語からどんどん強度が増しで紹介する。(あくまでも主観)
※変化し今も尚使用されている「ダサい(現在はダッセー)」「エグい」は除外する
破壊力・柔
- アプレ(ゲール)
- 「大きいことはいいことだ」
- おいしい生活
- カワイ子(娘)ちゃん
- 「記憶にございません」
- 3K
- C調
- 「じっと我慢の子であった」
- 新人類
- シラケ
- 「せまいニッポンそんなに急いでどこへ行く」
- トッポい
- トランジスタグラマー
- ネクラ(根暗)/ネアカ(根明)
- 灰色高官
- 「恥ずかしながら(帰って参りました)」
- 「もっと光を~」
- モーレツ(ソーレツ)社員
- ヤンエグ(ヤングエグゼクティブ)
- ワンパターン(マンネリ)
フランス語で戦後という意味。所謂、戦後世代の人や当時の風俗や文化、芸術の新傾倒を謳歌した人、世代。戦後派とも言われた。
昭和43年(1968年)森永製菓のYELLチョコレートのCMソングで歌われキャッチコピーともなった言葉。
作曲した山本直純氏自らCM出演し気球に乗ってタクトを振っていた。
昭和57年(1982年)糸井重里氏による西武百貨店のキャッチコピー。イメージキャラクターは米国の俳優・ウッディ・アレンだった。
昭和38年(1963年)から昭和末期ぐらいまで頻繁に使用されていた言葉。雑誌の巻頭グラビアを飾る当時のアイドルや街角で見つけた可愛い子を形容する時に濫用された言葉。
TVではドラマ、バラエティコント、アニメなどの台詞にも広く使用されていた。そのものズバリ可愛らしい女の子を指す言葉。
昭和50年代後半の80年代に入ると「そこのカワイ子ちゃん」から「そこのカノジョ」と変化
昭和51年(1976年)2月に明るみとなった大規模汚職事件・ロッキード事件に纏わる全日空ルート解明のため、衆議院予算委員会で証人喚問を受けた実業家・小佐野賢治氏が幾度も連発した言葉。
令和元年(2019年)9月、三谷幸喜氏監督による中井貴一さん主演映画のタイトルにもなってしまった。
バブル期の昭和61年(1986年)~平成3年(1991年)、恋愛対象は高学歴、高身長、高収入の男性に限ると調子に乗っていた女性や風潮を皮肉った言葉。(あくまで主観)
それとは反対に〝キケン〟〝汚い〟〝キツイ〟の3拍子揃った業種や職場などを揶揄する言葉として今尚生き続けている。
軽薄かつお調子者を指す言葉。C調の音階が明るくリズミカルな印象から発生した言葉。
昭和54年(1979年)のサザンオールスターズの「C調言葉にご用心」がきっかけとなった。例「このC調野郎!」「C調な奴だな」と使用されていた。
昭和47年(1972年)大塚食品のボンカレーの「子連れ狼」をパロディにしたCMで拝一刀風味に扮した笑福亭仁鶴師匠が大五郎風味に扮した子役に発した言葉。
経済学者・栗本慎一郎氏による造語。昭和54年(1979年)あたりからメディアなどで都合よくつかわれ、特に80年代の若者に対し従来の常識や価値基準を打破する振る舞いなどをする新たな価値観、感覚を持つ者たちに良くも悪くも使用されていた言葉。
コラムニストの泉麻人氏、プロデューサーの秋元康氏、とんねるずの石橋貴明さん、松田聖子さん、小泉今日子さんなどが象徴的人物となった。
同時期、大人気だった中森明菜さんは週刊誌などでは〝生意気〟などと叩かれていたが、蓋を開けてみると古風である種〝職人気質〟で〝懸命〟な人物だったと思われる。
ちなみに新人類という言葉が出てきた当初は1950年代後半から1960年代の前半の世代を指していた。
マーケティング上では昭和36年~昭和45年(1961年~1970年)に誕生した世代が属すると定義されている。
そんな私も〝新人類〟と呼ばれていた世代。戦後派のアプレ(ゲール)と類似する言葉。
興ざめなこと。また、何事にも関心・感動をもたないこと。1960年代(昭和35年~昭和44年)に活性化した学生運動が鎮まった昭和50年代初めの政治に無関心な若者のことをシラケ世代と呼んだ。
当時、バラエティ番組などでギャグがウケなかったりすると「しぃ~らけっ」「ドッちらけ」などとその場の空気を収める為に頻繁に使用された魔法の言葉。(現在のスベるに相当)
昭和51年10月~昭和53年3月末(1976年~1978年)までNET☞テレビ朝日系列で放送されていた「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」のコント「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」の中でキャンディーズ扮する兄弟たちにいじめられる同じ兄弟役の小松政夫さんが白い鳥のパペットを肩に乗せ「しらけ鳥音頭」なる歌を披露していた。
別番組の「ドリフの大爆笑!」でも小松さんがゲスト出演時に別の放送局でありながらもその垣根を超えその歌を披露するぐらい大人気であった。
マイカーが当たり前の時代となった1970年代(昭和45年~昭和54年)、交通事故件数も増加。当時のメディアはその状況を〝交通戦争〟と社会問題化した。
交通安全意識を高める一環で、昭和48年(1973年)の全国交通安全運動の標語募集で総理大臣賞を受賞した標語だった。
全国にこの標語のポスターや幟、看板などに掲げられ、さらにはTVのドラマの台詞やバラエティコントの台詞などに使用された。
この標語の作者は高知県在住の現職の警察官(当時)であった
明治時代から既に存在していた俗語。当時の意味は「狡猾」「抜け目ない」という意味だったが、昭和50年代後半非行の低年齢が社会問題になった頃には、不良でイかした様子の者たちを指す俗語に変化。
昭和34年(1959年)に流行した言葉。小柄で華奢とはよく聞くが、その様子とは反対とも言える別の言い方ではミニグラマーなどと言われていた。小柄でバッ・キュン・ボンな女性を指す言葉。
昭和50年代中頃にメディアに登場し始めたタモリさんがよく口にしていた俗語。タモリさん的には見た目と内面のギャップを表現したかった俗語だったらしい。
表面的には今風に言うとイケてて明るく見えるが内面に暗い(闇)を抱えている=ネクラ 表面的には大人しく暗く見えがちだが話してみるとざっくばらんで明るい性格=ネアカ。
タモリさんが司会を務めていた「笑っていいとも!」が放送開始となった昭和57年(1982年)に流行語大賞となっている。ただし起源は諸説あり。ネアカは死語となったがネクラは時折耳にする。
昭和51年(1976年)2月に明るみとなった大規模汚職事件・ロッキード事件で、完全な悪(黒)だとは言い切れない政府高官たちを指した造語。
噂はあるもののロッキード社から金銭の授受を立証ができなかった政治家の筆頭として名指しされたのが田中角栄政権時、内閣官房長官だった二階堂進衆議院議員。この事件を境に表舞台から遠ざかった。
昭和47年(1972年)2月終戦から28年後にグアムから帰還した旧日本兵・横井庄一氏(最終階級・陸軍軍曹)が記者会見にて「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど。」という発言から
当時の新聞の見出しなどに掲載された言葉。その年の流行語となった。立ち上がる時に勢いづけに発する〝よっこらしょ〟をもじった「よっこいしょーいち」も流行した。
昭和50年代に小西六写真工業(現:コニカミノルタ)のジャスピンコニカのCMに出演していた井上順さんによる偉人の名言シリーズが存在していた。
その中でゲーテが最期に言い放った「もっと光を(最期を看取った医師・カール・フォーゲルの証言が残されている)」をゲーテに扮する井上順さんが連呼するCMが話題となり子どもたちの間でも流行した
昭和30年代後期から昭和40年初めにかけて、労働基準を遥かに超える時間を仕事に費やす猛烈な人々たちを指す言葉。
昭和40年代後半から昭和50年代になると猛烈から壮烈に働くという意味でソーレツ社員とも呼ばれるようになる。企業戦士やバブル期になると〝24時間戦えますか!〟などの変遷を辿った。
若くして起業した者、実業家として成功を収めた者を指すバブル期の言葉。バブル崩壊によりそのような存在がどれだけ生き残れたかは不明。
代り映えしない様。思考様式が固定された作品などを揶揄する時に使用されるあまり喜べない言葉だったが、
平成時代に突入すると〝お約束〟〝様式美〟〝〇〇節〟〝〇〇風〟など寧ろ肯定的とも言える変遷を辿る。
破壊力・柔篇は以上 破壊力・中篇につづく・・・